2010年7月31日 (土)

十四冊目の初めに

⑧-95     **征さんのト書き(一部割愛)**

14冊目のノートをめくっていきますと、すぐアッシジ行きの話が出てきます。

**日付で言えば、4月9日に書いた、フランシスコのとても長い話しのくだりは、ちょっと読みごたえがあるかもしれません。4月9日という日は、ちょうど一年前に初めてノートをとり始めた日でもありました。丸一年の区切りの日であったと言う訳です。

その頃の私は、とても大きな力、エネルギーの変化のまっただ中にいました。ノートを開いて書き始めますと、あっという間に、ふわっと大きな力の渦の中に巻き込まれて行き、自分の体が無くなってしまったような、とても軽い浮遊感ですとか、それとは全く反対の凝縮感(もし、ブラックホールに入っていくとしたら、こんな感じかな?と思うような)あるいは、信じがたい程高いボルトの中に入ってしまい、何をどうして良いのか分からなくなってしまう、といったことが良くありました。

力の中に入ると言うよりは、まるで泉のように強力に湧き出すと言うか、噴き出してくる、と言った方が当っているように思えました。

その力の中で、このように文字として書き続けるということは、とても大変な作業となり、しばしば途中で断念しなければならない、と言うことは良くありました。

その頃のノートには、途中で書くことを放棄した断片的な文章に沢山ぶつかります。*あの頃は、ほんとうに大変だったと、今さらながら思うのです。**

そして今現在は、それが無くなったと言うことではなく、慣れてしまい、うまくコントロール出来るようになったと言うことです。

不可視の世界との関わりと言いますのは、こうしたエネルギーといったものを、生身の体で、どれだけキャッチ、許容し得るか、といったことであるようにも思えます。

そうしたエネルギーを、普通の人間の聴覚や視覚で捉えることが出来ますように、少し低く弱い周波のものに変換して、一般的な人に一つのビジョンとして視える、聴こえるといった状態にすることも出来るわけです。

本来の力(エネルギー)は、とにかく形、あるいは音といったものになる以前のエネルギー体そのものですから、視えたり聴こえたりする質のものではないと言うことです。つまり、物質現象的なものは何もない、 ” 空 ” そのもの、といった状態のことを言うようです。

私がこんなことを解説するのもおかしな話ですが、これらのことは、自分の体験を通して言えることだと思います。その意味では、不可視の世界とコンタクトしている人々には、その人なりの体験や、感じ方といったものがあると思います。

***

いまの世の中は、いろんな不道徳行為や、邪ま、まがまがしいことが満ち溢れていることで、” 終末の時 ” になりつつあると言われているのかもしれません。

しかし、新しい時代(とき)、新しい世界とは、その終末的な苦しみの時、混乱した事態を乗り越え、潜(くぐ)ってやってくると言うのですから、全てのことは、その時その時の必要を満たす、計画的なものであるかもしれません。

***

私は若いころから、フランシスコの名にはとても親しみがありました。少しの飾り気もなく、自分をことさら低くして生きたこの人物の生き方に対し、大いに共鳴出来るものがあるように思い続けてきました。

ところが、つい最近、それまでは考えもしなかった、フランシスコに対する考え、思いのようなものが生まれてしまいました。

フランシスコの伝記をいろいろと読んでいますと、彼は ”清貧” と言うことに対して異常な情熱を持って尽くす、というか、接していることが分かります。

私達は彼を一人の偉大な聖人として見るあまりに、そんな彼の暮し振りを、とても素晴らしい精神、生き方であると見過ぎているのではなかったのか・・・そんな気がしてしまったのです。

私は、いろんな国の、いろんな貧しい人達の生活、生き方の片鱗に触れる機会が多くあります。そうした人達の多くは、もともと貧しい世界に生まれ、もともと貧しい生活しかなく、それ以外の生活を知らない場合がほとんどです。

つまり、フランシスコが命がけで選び取った貧しい生き方そのものは、極貧の中で生きる彼らにとっては、それは美徳でもなんでもなく、ごく普通の日常であり、現実そのものであると言うことです。

そうだ、フランシスコは、生活の豊かさ、豪華な食べもの、衣服の温もり等々、いろんな意味で贅沢を知りすぎてしまっていたから、極端な苦しみを自分に課すことによって、初めて神の愛でる貧しい者になり得たのだ、と思いました。

その意味で、そんなに偉いことをしたわけではないのでは・・・そんなことを、ふと思ってしまいました。

つまり、前半生と後半生との落差が極端だと言うことです。もともと住む家も、お金も、食物も着る物もなかった人が、そのまま貧しく生きたとしても、決して名を残すこと等ないわけですが、彼フランシスコの場合、豊かさの極みから、” 神 ” の名のもとに、身を落とし、低めたが故に、多くの人々の心を惹きつけ、名を残すことになったのだと思います。

これでもか、これでもかとやっていく彼の姿、やはり常人にはなかなか真似の出来るものではありませんが・・・・

そして、フランシスコは、そのように大きく変身した自分自身の姿を通し、あまりに豪華絢爛、贅沢三昧、驕り高ぶった当時の宗教界、聖職者たち、あるいはそれらに近い暮し振り、神の教えを忘れてしまって生きる世の人々に対し、痛烈なる批判、警鐘を鳴らしえたのだと思います。

もちろんそればかりではない彼自身の人間的な、あるいは霊的な、とでも言うのでしょうか、そうした資質のことも当然考えなければいけないと思いますが・・・。

彼が若いころ、贅沢三昧をし、遊びほうけ、世を騒がす暴走族であったが故に、その改心ぶりが、多くの人々の手本になり得たのだ、と遅まきながら私は気付いたのでした。

彼フランシスコはそのようにして、聖職者や、神の教えを忘れてしまった世の人々を救う為に生きたのであり、一方、マザーテレサは、それこそ文字通り、貧しい中でも更に貧しい人々の救いの為に生きている人であると知りました。そして、その二つのことは、多分同じことなのだと思います。

****

さてフランシスコの時代から約8世紀、もう21世紀のいまの世の中、この時代をみて、神さまは一体何と仰っているのでしょうか・・・・。

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2010年7月27日 (火)

神の遊び

⑧-88     3月3日(1989)のチャネル

typhoon チャネル wave

今日は、あなた方のお国では、雛の節句というものです。この暖かい気温のために、花々も随分早く開いてまいりました。これからはまた一段と春めき、良い季節となってまいりましょう。

そうです。あなたの中には、いま一つの質問と言いますか、他の者のこだわりについての思いがあることを私達は知っています。

それは、1月14日の記述にある 『 私の遊びである に関することがらであります。

そうです。ほとんど多くの人達にとりましては、この世に起きていますあらゆる災害、あらゆる不幸、あらゆる苦しみや悲しみ、あらゆる不公平な出来事等々、考えるだに恐ろしいマイナス要因を持った、さまざまな出来事と神とは、なかなか結びつかずにいます

それらは全て悪の仕業、悪魔のせいである、と言っていればとても楽だったわけですが、このノートでは、それらもまた、いま一つの神の姿である、と神に帰した上に、更に、そうしたあらゆる事柄を、あろうことか、” 遊び ” である等と表現しています。

そんなことを言われてはたまらない、といった憤怒にも似た感情、あるいは割り切れない思いといったものが、読む人の心に湧き出してきたとしても不思議ではありません。

しかし、この言葉を、ただ単に ”あそび” といった音、あるいは通常的な観念のままで見てしまいますと、その裏にある、とてつもなく大きな、そして深い意味を捉え損なってしまいます。

私達はこのノートの中で、そうした概念、あるいは観念と言ったものを取り払っていただきたいと思い、さまざまなる記述、話をしてまいりました。

それらをいま一度、いえ、わからなければ二度でも三度でも、もっともっと何回でも読んでみていただきますならば、ここで言う ”遊び” の意味が何であるかを、よく汲み取っていただけるものと思います。

もちろんそのことは、いわば言葉の表現(余裕)であるとも言えますし、実際にその通りのことであると、改めてはっきり言うことが出来ると思います。

しかし、今までに人々は、神といいますものに対しての概念(あるいは観念)は、そのように、まるでおふざけのような遊戯(あそび)といった部分を含めては捉えてこなかったのですね。

』 と言ったとき、それはまことに厳粛極まりない、至高なる者の姿であり、表現でありましたから、そこにはいささかの歪みもひずみも割り込む余地の無い、完璧なものとして思考されてきたということでありましょう。

また、そのようにして人々の中に印象付けしてこなければならなかった、大きな要因というものがありました。

子にとりましては、親とは絶対のものであり、何よりも力を持ち、頼れる存在であることが必要であり、そのことがまた、如何に日々の暮らしの中に 『 安心 』 といったものをもたらすものでありましたでしょうか・・・・。

今さら言うまでもないことではありますが、あなた方人々の、この地球上での歴史といいますものは、いわばそのまま一人の人間の一生に例えることが出来ると言えるのです。

そのことが、いつも私達の申します 『 あなた方はもやは幼子(おさなご)ではありません 』 と言う言葉でもありましょう。

つまりあなた方は、もはや他からのさまざまな指図で動く、と言いますか、あれはいけない、これは・・・・と言われるような存在ではなくなりましたよ、と言うことではないでしょうか。

はじめてあなた方の霊魂と言いますものが、この地上に降り立った太古の昔の時から考えますと、今はもう随分多くの時代を越えて来て、大人になったと言うことです。

はじめは、この自然界に存在するあらゆる者の中から、ものの考え方、生きる智慧、暮らしの在り方などを教えられてまいりました。

しかし、時代の移り変わりと共に、ほとんど多くの人々は、そのことから少しずつ離れはじめて、” 人 ” 独自の文化、あるいは文明といいますものを創りだし、築き上げてもまいりました。

人は人だけで生き、いかようにも大きく成長してきたかのような在り方、考え方が、現在のあなた方の生活の中では、ごく当たり前になってしまっているのです。

もちろん、そのことも含めて、あの至高なる宇宙意識の存在は、あなた方を自由に生かし、つまりは 『 遊ばせてきた 』 と言えるのです。

喧嘩・戦争する者、怪我をする者、病に倒れる者等々、まことに人の世界はさまざまに変化があり、ドラマがあり、飽きることがありません。

人は、どのようにも自由に思考を凝らし、自由にその歴史を型どっていくことを許されてまいりました。なぜならば、それら多くの事柄の中から、人は多くを学び、まことに喜びとするもの、喜ばしきこととは何であるかということを良く知るように仕組まれてきたと言えましょう。

あなた方は、このようにして地球上に人が一人生まれ、そして生き続け、死へと至ります過程を、何であると見るのでしょうか。

ただ単に、人が一回だけの生で終わるとしましたら、どんなにか多くの充たされない思いを、その心に残して死にゆくことになるでしょうか。

もちろん、生がただ一回であるがために、精一杯、心の限り、魂の限りを尽くして去り行く、と言う考え方もありましょうけど、そのような者の数はまことに少ないと言わざるを得ません。

人にとって、この地上に何回も何回も生まれ変わって来れますことの意味が、どれほど大きなものであるかを、是非知っていただきたいと思います。

そのことがまことに良く理解されますならば、たまたま一回の生の中で起きてまいります、さまざまな不公平や不条理な出来事も、また別なる生の中で解決され、満たされていくものであると知ることが出来ると思います。

そして、もう少し心にゆとりを持って、そうです、それこそ、ゆとり以上の遊び心を持って、自分のことも他の人のことも、楽しく見ていくことが出来ますようにと心から願わずにはいられないのです。

これら全てのことは、もちろんあなた方も含めた

『 神なる宇宙意識の計画 』 であり

『 仕事 』 であり

『 遊び』  であると、

いま一度申し上げることに致しましょう。よいですね。

                あいしています いえす

**13三冊目のノート終了**精神世界ランキング

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2010年7月25日 (日)

神父さまの言い分

⑧-85  3月2日のチャネル

*征さん) 今日もこのようにして一日が終わりました。忙しくしてはいましたが、まあいろいろとあったのです。気になること、といいますか、やはり一つの例として、ここに記しておいた方が良いと思います。

typhoon チャネル mist

はい、それが何であるかを、私達はここに言うことに致しましょう。そのひとつは、やはりあの日曜日の夜に出逢ったキリスト者、つまりは教会の牧師と名乗る彼の言った言葉であると思います。

つまり彼はやはり、神と悪魔とは、はっきり分けて考えなければいけないということを、とにかく強く主張しようとしていたのです。

その主張は、多くの人々を善に導くことの骨子であるからなのです。

彼が人々の前で話す教理の中から、そのことを抜き取ってしまいますと、その屋台骨は崩れてしまいます。

彼はそのことを素早く感じ取ったのであり、つまりは、あなたに反論すると言うよりは、自分自身に言い聞かせていた、といった方が良いのかもしれません。いずれ彼自身の中で、解決の糸口は見つけ出されるに違いないのです。

彼はあの時、『 神はいずれ悪魔を許して下さるに違いない。しかしただ一つ許されないことがある。それは聖書の名を汚すことである 』 という事を強く述べていたのです。

いわば、私達はその聖書そのものであり、また、あなた方自身の本質的な魂こそが、聖書そのものであるはずなのですが、いま彼のような立場のものが、そのことをすぐ素直に受け入れていくと言ったことは、とても難しいことでありましょう。

神と悪魔 ” あるいは、” 神と人 ” とをはっきり分けて考えることによって、本質である大切なことが、大きく歪められてしまいました。あまりにも旧態依然とした考え、教理に縛られすぎているようです。

このようなことは、これまでの歴史の中でも度々、直接的に私達の言葉、意思を取り次ぐことの出来た者によって、言い改められてきたことがらなのですが、なかなか持続されず、すぐにまた歪められてしまいました。

そればかりではありません。そのようにダイレクトに言葉を取り次ぐ者は、時として悪魔付き、あるいは魔女扱いをされ、社会から葬りさられたケース等が沢山ありました。

つまり、教理や教会そのものを形として守ること、また上に立つ者の地位の確保といったことが、何よりも優先されてきたということです。

そして、いまも又このようにして、私達はあなたや他のさまざまなる人々の口を通して、そのことをなそうとしているのです。

これらのことは、その受け止めようとする者の人==人間性、人格を通すことにより、その内容、表現の方法はさまざまに変化してきているのです。

また、それにもいろいろな段階はあります。さまざまな世相に合わせ、また、さまざまな魂の資質に合わせて、そのところでよく理解できますようと仕組まれているのです。

よいのです、信じてもらえるか、もらえないかを気にすることはありません。とりあえずは、この新しき時代に向けての、新しい息吹に触れられたことを喜んでいただきたいと、私達は心から願わずにはいられません。

あなたも、また他なる人々も、まだ本当は、このことの本質を掴み取ってはいないのではないかと思います。まだまだ表面的なものを知っているにすぎません。それでも、このことを心から信じて下さる方は、なんという幸せでありましょうか。

さあ、あの牧師さまの話から、ここまで話を進めてまいりました。あの時、あなたが何の反論もしなかったのは、とても良いことでした。多分次の機会には、もう少し良く伝わることでしょう。

これらのことなど、まだまだ序の口です。本当に手ごわい方々は、これから次々と現れてまいりましょう。

あなたは、そのあるがままの状態で、よく私達をあらわすことが出来ます。あなたの持つ本来の姿勢を変える必要はありません。

何も特別なことは致しません。ごくシンプルに、そうです。ごく自然にやってまいりましょう・・・。

               あいしています  いえす

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2010年7月24日 (土)

暖冬の原因・理由

⑧-81  3月1日(1989)のチャネル

*征さん) おはようございます。とうとう三月になりました。それこそ長くもあり短くもありの日々であると思います。それにしても、この冬はあまりにも暖かくて、まあ俗に言う、気色悪いというか、何か良からぬことがあるのではないかと、みんな思いはじめているわけです。

typhoon チャネル mist

はい、そうですね。あなた方人々の感覚からすれば、この暖かさはまことに異常とも思えるに違いないのです。この地球全体で言えば、それなりのバランスを保つ為の調整であり、それがたまたま、あなた方人々が長く馴染んでまいりました、季節的な感覚と一致していないというだけのことです。

やはりこの地球も、他から独立した、ただ一個の星というわけではなく、他の星々との関わりの中で存在していますから、それらの影響も多く受けることになってまいります。

また、あなた方人々の暮らしの在り方なども、この星全体のバランスに大きく作用していると言えるのです。

しかし、何であれ、それらは起こるべくして起きていることがらなのですから、いまさら驚くにはあたりません。あなた方は、このようにして過ぎ去っていく日々の中で、せめてご自分達の生きる姿、生活感覚を大切にして、よく保ってくださいますようにとお願いしたいと思います。

この地球全体のことですとか、宇宙空間の中でのバランスですとかは、今の段階で、あなた方が如何に心を砕いたり考えこんでみたとしましても、即座にどうなるものでもありません。今はとにかく、良く、素直に生きて下さいますようにと申し上げることに致しましょう。

この間、あなたの心にはさまざまな思いが去来してきたことを、私達は見てきました。これら、私達との交流の世界と、実際の生活空間との間(はざま)で、あなたが如何にさまざまな思いの中で生きているものであるかを、私達はよく知っています。

しかし、これらのことは、あなたの思っている以上に多くの人達に受け入れられていくと思いますよ。どうぞもうあまり考えすぎないことです。

              あいしています  いえす。

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2010年7月22日 (木)

他の宗教を認める

⑧-79

*征さん) もう一つの彼女の質問です。彼女は、お子さんの持つ障害を乗り切る(?)ために、ある宗教に入信し、信心してこれらたわけです。おそらく、その宗教に頼らなければ、お子さんとの苦しかった日々を耐えてこられなかった と彼女は考えており、私もそうに違いないと思うのです。

今こうして、私のノートの話に触れたことで、その宗教から抜け出そうとしているのですが、長年お世話になったことを思いますと、なかなか決心がつきかねている という事なのです。

typhoon チャネル typhoon

はい、そのことについては、それ以上を言う必要はありません。

人は誰であれ、そのように辛い時、苦しい時がありますし、そのような時こそ、神あるいは仏というものに、心からすがりたいと思わずにはいられないものであると、私達は良く知っているのです。

それが彼女にとっては、たまたま彼女の宗教の中の御本尊さまと言うものでありましたでしょうし、その中でまた、よく助けられてもまいりましたことでしょう。

それはたまたま ”御本尊さま” という形をとった宇宙意識そのものであり、また彼女の本質そのものであると言っても良いのではないでしょうか。

彼女は、足の悪い自分のお子を通してはじめて、眼には見えない何かに対し手を合わせ、心を傾けることをなしてまいりました。

もし、まだ彼女の中で、そのことが気になるようでありますならば、それを無理に引き離すことも、引き払うこともないと思います。

彼女にとりましては、またとない心の救いであり、よりどころであったのでしょうから・・・・。決してそのようなことを気にしたり、こだわったりすることはありません。

たとえば、私にまつわりますキリスト教の中でさえも、いわゆる 『 眼には見えない、唯一全能なる神 』 といいながらも、形ある教会を建て、あまつさえこの私の、あの十字架上の苦しき死の姿を絶えず掲げ、その私の姿に手を合わせ、祈り続けているのです。

まことを言えば、彼女の信心してまいりましたあの一つの宗教、その中で多くの人々が手を合わせ拝んでまいりました御本尊さまと、まったく同じ構図であると言えましょう。

私を通さなければ、本当の救いは無いとして、他の宗教を認めようとしない在り方等は、まことにもってよく似ているのではないかと思います。

今までは、実に多くの人々が、さまざまなる形をした宗教の中で、いわゆる多くの信仰心を傾けてまいりましたけれど、これより先は、そのような ”形” といいますものを、次々と外していく時でありましょう。

でも、何も心配は要りません。彼女の気の済むまで、御本尊さまを大切になさるとよろしいのです。無理をして自分を変えていくことはありません。

                    あいしています いえす

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**征さんの解説**

彼女は、私の古くからの友人ですが、心身に軽度の障害を持ったお子さんを出産したことから、夫婦間や、ご家族の間で、大変な精神的苦労をされました。

そのことから、ある教団に入信し、それを心の救い、よりどころとしてきたということです。

彼女が、私のノートのコピーを始めて読んだ時期に、それと並行して私はそのお子さんの手当てをすることになったのです。

たまたま、そのお子さんの悪い足は、みるみる癒えていきました。もちろん完治というわけにはまいりませんが、かなり良い状態にまでになりました。

いま読んでいただいたのは、そんな中で私が彼女から受けた悩み事といいますか、相談ごとのやりとりなのです。

同じテーマであっても、人によってはもっと深刻に考え込む人もいるでしょうし、軽く受け流し、前向きに積極的に生きていける人もいると思うのです。ですから、同じような内容の質問であっても、アドバイスはその人その人によって異なるものだろうと思います。

以前の本の中で記述されていますように、ある人には急ぎなさいと言い、ある人には、どうぞゆっくりと・・・と言うことかと思います。

このような答え方のパターン ( つまり厳しくなったり、優しくなったりといったこと ) は、あらゆるものに共通するものであると思います。みな各々に、歩く早さ、生きる姿勢がとても違っているからだと思います。

かく言う私は、とてもせっかちと言いますか、即実行型ですから、ついつい周りにもそれを強いてしまいがちで、反省しなければ、と思いますが・・・・。

このようなこと、蛇足かと思いましたが、少し付け加えてみました。

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