十四冊目の初めに
⑧-95 **征さんのト書き(一部割愛)**
14冊目のノートをめくっていきますと、すぐアッシジ行きの話が出てきます。
**日付で言えば、4月9日に書いた、フランシスコのとても長い話しのくだりは、ちょっと読みごたえがあるかもしれません。4月9日という日は、ちょうど一年前に初めてノートをとり始めた日でもありました。丸一年の区切りの日であったと言う訳です。
その頃の私は、とても大きな力、エネルギーの変化のまっただ中にいました。ノートを開いて書き始めますと、あっという間に、ふわっと大きな力の渦の中に巻き込まれて行き、自分の体が無くなってしまったような、とても軽い浮遊感ですとか、それとは全く反対の凝縮感(もし、ブラックホールに入っていくとしたら、こんな感じかな?と思うような)あるいは、信じがたい程高いボルトの中に入ってしまい、何をどうして良いのか分からなくなってしまう、といったことが良くありました。
力の中に入ると言うよりは、まるで泉のように強力に湧き出すと言うか、噴き出してくる、と言った方が当っているように思えました。
その力の中で、このように文字として書き続けるということは、とても大変な作業となり、しばしば途中で断念しなければならない、と言うことは良くありました。
その頃のノートには、途中で書くことを放棄した断片的な文章に沢山ぶつかります。*あの頃は、ほんとうに大変だったと、今さらながら思うのです。**
そして今現在は、それが無くなったと言うことではなく、慣れてしまい、うまくコントロール出来るようになったと言うことです。
不可視の世界との関わりと言いますのは、こうしたエネルギーといったものを、生身の体で、どれだけキャッチ、許容し得るか、といったことであるようにも思えます。
そうしたエネルギーを、普通の人間の聴覚や視覚で捉えることが出来ますように、少し低く弱い周波のものに変換して、一般的な人に一つのビジョンとして視える、聴こえるといった状態にすることも出来るわけです。
本来の力(エネルギー)は、とにかく形、あるいは音といったものになる以前のエネルギー体そのものですから、視えたり聴こえたりする質のものではないと言うことです。つまり、物質現象的なものは何もない、 ” 空 ” そのもの、といった状態のことを言うようです。
私がこんなことを解説するのもおかしな話ですが、これらのことは、自分の体験を通して言えることだと思います。その意味では、不可視の世界とコンタクトしている人々には、その人なりの体験や、感じ方といったものがあると思います。
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いまの世の中は、いろんな不道徳行為や、邪ま、まがまがしいことが満ち溢れていることで、” 終末の時 ” になりつつあると言われているのかもしれません。
しかし、新しい時代(とき)、新しい世界とは、その終末的な苦しみの時、混乱した事態を乗り越え、潜(くぐ)ってやってくると言うのですから、全てのことは、その時その時の必要を満たす、計画的なものであるかもしれません。
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私は若いころから、フランシスコの名にはとても親しみがありました。少しの飾り気もなく、自分をことさら低くして生きたこの人物の生き方に対し、大いに共鳴出来るものがあるように思い続けてきました。
ところが、つい最近、それまでは考えもしなかった、フランシスコに対する考え、思いのようなものが生まれてしまいました。
フランシスコの伝記をいろいろと読んでいますと、彼は ”清貧” と言うことに対して異常な情熱を持って尽くす、というか、接していることが分かります。
私達は彼を一人の偉大な聖人として見るあまりに、そんな彼の暮し振りを、とても素晴らしい精神、生き方であると見過ぎているのではなかったのか・・・そんな気がしてしまったのです。
私は、いろんな国の、いろんな貧しい人達の生活、生き方の片鱗に触れる機会が多くあります。そうした人達の多くは、もともと貧しい世界に生まれ、もともと貧しい生活しかなく、それ以外の生活を知らない場合がほとんどです。
つまり、フランシスコが命がけで選び取った貧しい生き方そのものは、極貧の中で生きる彼らにとっては、それは美徳でもなんでもなく、ごく普通の日常であり、現実そのものであると言うことです。
そうだ、フランシスコは、生活の豊かさ、豪華な食べもの、衣服の温もり等々、いろんな意味で贅沢を知りすぎてしまっていたから、極端な苦しみを自分に課すことによって、初めて神の愛でる貧しい者になり得たのだ、と思いました。
その意味で、そんなに偉いことをしたわけではないのでは・・・そんなことを、ふと思ってしまいました。
つまり、前半生と後半生との落差が極端だと言うことです。もともと住む家も、お金も、食物も着る物もなかった人が、そのまま貧しく生きたとしても、決して名を残すこと等ないわけですが、彼フランシスコの場合、豊かさの極みから、” 神 ” の名のもとに、身を落とし、低めたが故に、多くの人々の心を惹きつけ、名を残すことになったのだと思います。
これでもか、これでもかとやっていく彼の姿、やはり常人にはなかなか真似の出来るものではありませんが・・・・
そして、フランシスコは、そのように大きく変身した自分自身の姿を通し、あまりに豪華絢爛、贅沢三昧、驕り高ぶった当時の宗教界、聖職者たち、あるいはそれらに近い暮し振り、神の教えを忘れてしまって生きる世の人々に対し、痛烈なる批判、警鐘を鳴らしえたのだと思います。
もちろんそればかりではない彼自身の人間的な、あるいは霊的な、とでも言うのでしょうか、そうした資質のことも当然考えなければいけないと思いますが・・・。
彼が若いころ、贅沢三昧をし、遊びほうけ、世を騒がす暴走族であったが故に、その改心ぶりが、多くの人々の手本になり得たのだ、と遅まきながら私は気付いたのでした。
彼フランシスコはそのようにして、聖職者や、神の教えを忘れてしまった世の人々を救う為に生きたのであり、一方、マザーテレサは、それこそ文字通り、貧しい中でも更に貧しい人々の救いの為に生きている人であると知りました。そして、その二つのことは、多分同じことなのだと思います。
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さてフランシスコの時代から約8世紀、もう21世紀のいまの世の中、この時代をみて、神さまは一体何と仰っているのでしょうか・・・・。
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